忘れ物してよかっただなんて、生まれて初めて思った。
 赤信号で立ち止まった交差点。行き交う車。黒いアスファルトと白いペイントの橋。その向こう側、のっぽの信号機の隣に、黒子くんが立っている。
 通学路で彼の姿を見つけたのは、これが初めてだ。バスケ部と帰宅部では、生活のリズムがまるで違う。きっと朝も早いであろう彼の帰宅時間は、いつもぎりぎりまで部活をした後 なのだ。そして今はその時間。夏の長い日も落ちようとしている今になって、私はやっと、宿題に必要なプリントを学校に置き忘れたことに気がついた。むしろ今まで気がつかなくて よかったと内心は飛び上がって喜ぶ。
 取り巻く風景が見慣れた教室ではないからか、いつもと少し違って見える黒子くん。片手に文庫本なので、こちらには気づいていない。車が彼の前を走り過ぎるたびに、ふわりと 揺れる前髪。その陰になった透き通る水のような瞳は、じっと紙面の文字に向けられている。何の本を読んでいるのだろう。その内容を知りたい、よりも、その文字がうらやましい、 の方が大きいだなんて。ひとつため息をつく。
 次の瞬間には、視界から彼が消えていた。

 「えっ、あれ」

 「さん?」

 「わあっ!?」

 飛び上がった私の隣に、黒子くんはいた。さっきまで本に落とされていた視線は、ぱちぱちと瞬きながら、今度は私に注がれている。そのせいで、私の心臓は飛び跳ねたまま、 大人しくなる気配もない。

 「信号、変わってしまいますよ」

 「え……あっ!」

 黒子くんの指がすいと示した先を見ると、青信号は既に点滅を始めていた。歩く人の影が数度、出たり消えたり。迷っているうちに影は赤くなり、きちっとした姿勢で立ち止まって しまった。止まっていた車が、またタイヤを回して走り出す。
 肩を落とす私の横で、黒子くんが少しだけ笑う気配がした。思えば、さっきからの私は「え」とか「あ」しか言っていない。恥ずかしくなってきた。

 「ご、ごめんね、黒子くん。信号、せっかく教えてくれたのに」

 「いいえ。……さんは、これから学校ですか? この方向だと」

 「うん。忘れ物しちゃって」

 更に間抜けをアピールしてしまった。消え入りたい。自分を呪う私のそばで、黒子くんはなぜか難しい顔をした。

 「それは……だめですね」

 「え?」

 「もうそろそろ日も落ちてきました。暗くなります」

 「う、ん」

 「危ないです。ボクも行きます」

 「え……え?」

 反応が追いつかなかった。口を開いたり閉じたりする私に、黒子くんはちょこっと微笑んで見せた。

 「信号、変わりますよ。行きましょう」

 夕日の橙をかぶる青信号。軽く引かれる指先。
 忘れ物して心底よかっただなんて、生まれて初めて思った。





交差点越しの


Title / 魔女のおはなし
「あるようでないベタな展開」から拝借