ふと立ち止まった紫原に、は一、二歩先へ進んでしまってから、おやと思い振り返った。
冬のアーケード街、まだ十一月の末だということにも構わず、クリスマスのオーナメント
やイルミネーションで夕方の時分からきらきらと明るいその一角に、寂れ気味のゲームセンターがぽつんとあった。店の文字看板はネオンがひとつ切れていて、意味をなさなくなった
アルファベットの列がちかちかと瞬いている。そのどこか郷愁さえ誘うたたずまいの店舗の、通りに面した入口付近に、一台のゲーム機が据え置かれていた。なぜそこまでと思わず
にはいられないほどひ弱なアームを操作し、つけ入る隙のない並べ方をされた景品を掴み上げて取り出し口に落とす、いわゆるユーフォーキャッチャーと呼ばれる類のものである。
どうやら紫原の注意はそれにひきつけられているようだ。体は進行方向に向けたまま、首だけでそちらに釘づけになっている。
そのまま動かない紫原の隣に並び、は同じようにそちらを覗き込んでみた。そして納得する。透明なプラスチックの箱の中には、まいう棒四十本を擁した巨大まいう棒の
パッケージが転がっていた。
「ほしいの?」
「うー……ほしい、けど」
しかつめらしい顔をした紫原の返事は歯切れが悪かった。大好物を目の前にして何を悩むのだろうと首を傾げるに、紫原はいつもの調子ながらも、どことなく苦渋をにじませた
声で返す。「月末ー……」。途端にも眉尻を下げた。深刻な問題である。
紫原はその巨体を維持するために、非常に多くの食料を必要とする。年齢的にも男子高校生だ、ただでさえ食べ盛りの時期に当たる。必然負担となる食費は相当なものになってくる
のだが、そんな紫原の食糧事情を改めて鑑みると、問題の大きな割合を占めるのはその両手に常備された菓子類である。ぶっちゃけたところ三度の飯がなくとも菓子さえあればそれで
いい紫原は、スナック菓子を通常装備のごとく持ち歩いている。次から次へと、封を切られたかと思えば直後には空になってゴミ箱へと放り込まれるパッケージを見るだに、そんなに
食べて金銭的には大丈夫なのだろうかと、もひそかに心配することはあった。しかし菓子は紫原の楽しみであり、はたから見るともはやアイデンティティーのひとつでもある。
それをとやかく言って本人の意思を抑え込み、控えるよう仕向けるのは少々忍びない。実のところ紫原の家計には余裕があり、金銭面での心配など余計なお世話だという可能性もある
のだ。
彼の好きにさせてあげればいいと、少し前まではそう思っていただったが、やはりその懸念は的中していた。紫原の財布の中身はその食欲に釣り合わず実に平均的な下宿生の
それであり、月末にもなると積み上げた菓子代のおかげでだいたいがかつかつだった。放っておいたら一度、最後の一週間をほとんどまいう棒だけで過ごし、さすがに栄養失調一歩
手前の騒ぎを引き起こしたこともある。ちなみに本人にその危機的意識はなかった。
以来、監督命令と氷室とによるそれとないサポートでそのような事態を招くことはなくなったが、月末が近づくにつれ、節約生活を余儀なくされることに変わりはない。そして
今が、ちょうどその戦いの時期だ。いかにしてスナック菓子を確保し、飯もそれなりに食っていくか。ぎりぎりの家計の中で、ユーフォーキャッチャーなどという博打に手を出す余裕
などあろうはずもない。
紫原は横手のゲーム機に向けていた首を元に戻し、きっと前を睨みつけた。ちょうど向かいからやってきた通行人がぎくりと身をすくめるような、険呑な表情だった。
「行こ、ちん」
「紫原くん……」
は哀切な目で紫原を見上げると、こくりと頷いた。紫原が可哀相でしかたがなかったが、その紫原のためにもここは早々に辞すべきである。自ら好物四十本入りへの未練を断ち
切ったのだ。その自活面での成長と努力を無駄にはすまい。もはや我が子を見守る母の心情である。紫原とはまた歩き出した。
しかし十数メートルもしないうちに、紫原がまた立ち止まった。
「? 紫原くん?」
「んー……うん」
生返事をして、再び歩を進める。首を傾げてついていっただったが、また数歩行ったところで足を止めることとなった。
「む、紫原くん……」
「うんー……」
ゆるりと首を縦に振ったものの、やはりその足取りは重い。そしてとうとう道のど真ん中で、二人して立ち往生の体となってしまった。
「……紫原くん」
「ん」
「私、やってみようか?」
その言葉を耳にした瞬間の紫原の目の輝きといったら、は生涯忘れはしないだろうと思った。しおれていた幻覚の耳が元気を取り戻してぴーんと立ち、尻尾が喜びいっぱいに
左右に振れた。はもはや愛犬を甘やかす飼い主の心持ちである。しかしまったく悪い気はしなかった。
結果だけ言うと、は三度目の正直で景品を落とすことに成功した。紫原のあまりに哀れを誘う様子にたまらず名乗りを上げてみたものの、何せこの手のゲームは小学生の頃以来
である。実のところ、自信のほどはいささかもなかった。なのでこの予想外の功績には自身たいそう驚いた。ビギナーズラックというやつであろうか。一本十円が四十本に対して
一回二百円で三回。飛び出た二百円はチャレンジ料としてでも換算すればそれなりに納得できる代価に収まった。
紫原はというと、それはもうたいへんな喜びようだった。から受け取ったまいう棒の大袋を子どもが宝物にそうするように抱きしめ、ゲームセンターから帰る道すがらしきりに
「すげーちん」「まじサンタ」「てゆーか天使」「結婚して」などと褒め称える言葉を繰り返していた。の方も、想像以上に喜んでもらえたことが嬉しく上機嫌だった。
「おみそ汁は紫原くんが作ってね」などと調子のいいことを言って笑った。
やがての自宅前に着いた。二人はここで別れ、紫原はもう少し行ったところのコンビニに立ち寄り、また元の道を辿って学校近くの寮へと戻る。空はすっかり紺青色に沈み、街の
輪郭をその中にとかしている。白い街頭の光の輪の下で、抱えた袋の銀色を反射させながら紫原は言った。
「今日はありがとね、ちん。また来月んなったらなんかお礼するし」
「いいよ、そんな。私もちょっと楽しかったし、それは早めのクリスマスプレゼントってことで、ね」
がてのひらを振ると、紫原はそれを上から眺めてふと口を閉じた。そして何の前振りも前触れもなく、上から覆いかぶさるようにしてに抱きついた。巨大まいう棒ごと
ぎゅうぎゅうされたは、唐突に視界を塞いだ紫原のコートの下で目を白黒させた。
「あーもー、ちん大好き」
がはっと意識を持ち直した頃には、紫原は既に体を離していた。変わらず大事そうにまいう棒を脇に抱え、「じゃあねー」とひらひらと手を振りに背を向け歩き出した。
猫背気味の背中が街頭の光の輪から外れ、冬の夕闇に紛れていく。
やがて足音も遠ざかり、いつの間にかその姿が見えなくなっていたと気づいた瞬間、の顔は噴火でもするのではないかと思うほど熱くなった。冬の空気さえも弾き返すその熱に、
はたまらず両てのひらで頬を覆った。しかしきちんと毛糸の手袋をつけていたので、余計に温まってしまうだけだった。いったいどうしたというのか。とても近くで聞こえた、
紫原の呟く声を思い出す。無理だった。同時に、包み込まれた瞬間の温かさや匂いや胸の広さがいっそ鮮烈なほどにありありとよみがえり、の鼓動に拍車をかけた。弱り切った
表情で頬の赤さをごまかすのその心情は、母でも飼い主でもなかった。恋する乙女。陳腐な言葉だが、まさしくそれ以外の何ものでもなかった。
そのうち本物の母親が雨戸を閉めるべく玄関から現れ、思い切り訝しげに声をかけるまで、はひとり突っ立って身もだえしていた。
Q, キャッチしたのはどっちでしょう
↓
A, ?
「ちーん、とりあえずみそ汁作ってみたんだけどー」
「(がったーん!)」
「何でそこでひっくり返るんだ?」