11月の迷子とお菓子
※むっくんと幼女でnot恋愛
このお菓子の掴み取りというやつは、自分のために用意されたようなものだろう。一回百円で、ひと掴み掴めるだけ。普段からバスケットボールみたいなでかいものを転がして
いる自分の手にはもってこいのゲームだ。
そんなふうなことを考えながら、ほくほくとした心持ちで紫原はブースを後にした。左手のビニール袋には、お菓子の詰まった色とりどりのパッケージが。その中からさっそく
まいう棒を一本取り出し、右手に携えてひと口かじる。先日発売したばかりの新味だった。もそもそする口の中に小さな満足感を覚えながら、紫原は辺りを見回した。そして首を
傾げる。
「あれ」
廊下を行きかう、たくさんの人。普段は指定の制服で黒一色になっているその往来にも、今日から二日間だけは様々な色がまじる。ここ陽泉高校は、文化祭の活気に華やいでいた。
制服姿の合間を、浴衣の女子がからころと通り過ぎ、きぐるみの客引きが手持ち看板片手にぼてぼてと歩いていく。一般にも開放されているので、生徒以外の顔も割と多く見かける
ことができる。皆それぞれ、楽しげに話し、笑い合い、手作りの装飾が施された校舎にもう一段鮮やかさを添えていた。
しかし、そんな顔の中に、紫原の捜す人物は見当たらなかった。長身で黒髪で右目元にほくろがあるので、見落とすこともないと思うのだが。つまり、紫原は先程までこの文化祭を
一緒に見て回っていた氷室と、はぐれてしまっていたのだ。
紫原は廊下の窓に寄り掛かり、ぼんやりと人の流れを眺めた。そのタワーのような長身に目を瞠る人はたびたび通り過ぎれども、どこ行ってたんだ、とかこっちの台詞を言いながら
肩をすくめて近寄る氷室はいない。紫原がお菓子の掴み取りをする間、自分はいいからその辺で待っていると言っていたはずだ。その辺とはどの辺だろう。お菓子まっしぐらだった
ので、その後氷室がどこへ向かっていったのか、さっぱり覚えがない。停滞する思考の間にも、口だけは休みなくもぐもぐと動く。一本食べ切ってしまった。
紫原は窓に凭せ掛けていた背をだるそうに離した。適当に歩いていれば、いずれ見つかるだろう。見つからなくても、まあべつに構わない。とりあえずは、完食したまいう棒の
空袋を捨てるべく、廊下の突き当たりに設置されたゴミ箱を目指し一歩踏み出した。そのときだ。
「あれ」
本日二度目の疑問符。踏み出した足が、何かにぶつかって阻まれた。同時に、ぼすっ、と足元からその何かが倒れる音。飾りに置かれていたぬいぐるみでも、蹴倒してしまったの
だろうか。その何かを確かめるという自然な反応で、紫原は自分の足元に目を遣り、一拍置いて、げ、と思った。そしてその、げ、はどうやら口にも出ていたらしい。
紫原の足元、尻もちをついた格好で遥か紫原の顔を見上げていた女の子の目尻に、じわじわと涙が浮かび始めた。
「っう」
「え、ちょ、ストップ」
さすがの紫原も、これには慌てた。こんなに人目の多い場所で子どもを泣かせてしまったら、誰に何を誤解されるか。というよりは、ただ単純に面倒くさい。正直さっさと
立ち去ってしまいたかったが、いくら気分に忠実な紫原とはいえ、そうするわけにはいかないと理性が押しとどめた。どう見ても、泣かせてしまったのは自分だ。しかしこの事態、
いったいどのように収拾すれば良いのか。
紫原が行動を起こしあぐねているうちにも、女の子の顔はみるみる歪んでいく。あわや、紫原が考えるのも面倒くさくなり諦めた瞬間、女の子の涙腺は決壊した。
「んぶ」
予想していた、廊下の賑やかさを引き裂くような泣き声ではなく、女の子の口から漏れ出たのは変に潰れた声だった。
紫原は数度まばたきする。足元で、女の子は顔を真っ赤にし目からぽろぽろと涙をこぼしながらも、唇だけは必死に引き結んでいる。変な顔、と呆気に取られた紫原の思考はまず
そんな感想を呟いたのだが、少し遅れて、その女の子が泣くのをこらえているということを理解した。
紫原はひとまず安堵して、中空に目を遣った。徐々に、普段のペースが戻ってくる。とりあえず、この女の子を落ち着かせればいいのだろう、恐らく。そういえば、犬や猫の
動物は、こちらが目線を合わせてやると安心するらしい。中学時代、それなりに仲の良かった友人に教えられた、無駄だと思っていた知識が記憶の引き出しから引っ張り出される。
足元にうずくまっているのは犬猫ではないが、小さいことには変わりない。やれやれと、紫原もその場にしゃがみ込んだ。
「えーと……ごめん。大丈夫ー?」
膝を抱えて、女の子の顔を覗き込む。しゃがんだとはいえ、やはりその小さな頭は紫原の目線よりも数十センチ下にある。
女の子は肩を震わせ、しばらくの間俯き黙り込んでいた。待つこと数十秒。やっと、恐る恐るだが、その顔を上げた。依然鼻の頭や目元は真っ赤だったが、涙は既に止まっていた。
濡れてまとまった睫をぱちぱちと揺らし、紫原を見上げる。恐らく、彼の長身を巨人族か何かと思い込んでいたのだろう。やはり自分よりは大きいとはいえ、最初に見たよりもずっと
近くなったその顔に、やっとのことで彼も自分と同じ人間だと理解したらしい。素直にきょとんとした表情に、怯えの色はもはや見えなかった。目線を合わせる作戦は、どうやら
成功したようだ。紫原は心の中で、友人、黒子の数年越しの助け船に感謝した。
「ケガしてない? 痛いとこない?」
思いつく限りの定型句的な問いかけに、まだ少し窺うような慎重さで頷き返すその女の子を、紫原は改めてしげしげと見つめた。年の頃は、どうだろう、子どもの外見年齢など
紫原には判別できない。とりあえず、幼稚園ぐらいだろうと予測する。なぜ高校の校舎内に幼稚園児がいるのか。考えてみて、今日が文化祭であったということを思い出す。不測の
事態にすっかり失念していた。つまりこの女の子は、どこぞの一般参加者が連れてきた、どこぞの生徒のきょうだいか何かなのだろう。面倒なことをしてくれる。おかげで自分が
こんな廊下のど真ん中でしゃがみ込む羽目になった。
覚えず長いため息をつきそうになり、しかし既のところでそれをぐっと飲み込む。真正面から、ふたつの真っ黒な瞳がまばたきもせずこちらを見上げていた。怯えさせて、また
泣かれてしまったらそれこそ面倒だ。紫原は少し首を捻って、また問うた。
「立てる?」
女の子は頷くと、ぱっと立ちあがった。ふわりと揺れた白いスカートの裾を、少し不器用な手つきではたく。紫原もつられて立ち上がろうとしたが、やめにした。何だか億劫だった
こともあるが、小さい方が立ち上がったことで、紫原と女の子の目線はほぼ同じ高さになっていた。目線を合わせる作戦を続行するなら、これはちょうどいい。
紫原はしゃがんだ格好のまま、頷いた。この女の子が割合気丈で良かった。涙はもう止まっているし、足元もしっかりしている。ちびっこいのを蹴ってしまったと認識したときは
少々肝が冷えたが、怪我もないようで助かった。もう、適当にリリースしても平気だろう。
「うん、じゃあ、大丈夫そうだし。バイバイ」
紫原はひらひらと手を振った。
そして、間。
しかし、女の子はその場を動こうとしなかった。小さな両手を体の横でぎゅっと握りしめ、まばたきの少ない目は紫原の上履き辺りを意味もなく凝視している。珍しく冴えた紫原の
頭を、嫌な予感が横切る。
「……もしかして、迷子とか」
ぎくっ、と音がしそうなほどに、女の子の肩が強張った。重なる面倒に、紫原は目眩しそうだと思った。本当に、犬猫ではないが、面倒見切れないなら連れてくるな。ここは親を
捜してやるべきか、それとも迷子センターにでも送り届けてやるべきか。ところで文化祭に迷子センターなどあっただろうか。迷子といえば氷室はどこに行ってしまったのだろうか。
彼も迷子なのだろうか。迷子センターにいるのだろうか。
トリップしかけた意識の外で、しゃっくりのような声が聞こえた。紫原が再び現実を見ると、女の子は依然、紫原の上履きを凝視していた。しかし、その目にはまた、溢れて
こぼれそうな涙が戻ってきていた。
「図星指されて泣くとかー……」
「うっ、うー……おかーさん……」
「オレおかーさんじゃねーし」
紫原はとうとうため息をつき、ぼすん、とその小さな頭にてのひらを乗せた。バスケットボールよりも小さい。そのままわしゃわしゃと撫で回してやる。きれいにふたつに結った
髪を容赦なくかき回され、女の子は右へ左へよたよたする。抗議するように、ぐしゃぐしゃになった髪を押さえ、ぐしゃぐしゃな顔のまま紫原を見た。
「お菓子食べる?」
そして問われて、ぴたりと動きを止めた。きょとん、という擬態語が書いてあるような顔をする。ぱちぱちとまばたくたびに、小さな涙の粒が散る。
紫原はお菓子の詰まったビニール袋を掲げて、じっと待った。黒い瞳が、紫原の顔から、その左手にあるビニール袋へ移った。顔、袋、顔、袋。しばらくの間、そのふたつを交互に
見比べる。そして、ふと視線が移り、最後に固定されたのは、
「……え、まじで」
紫原の右手、捨て損ねて握り込んだままだった、まいう棒新味の空袋だった。
いっぱいに見開かれた目は相変わらず涙で潤んでいたが、それを上回るほどの期待にきらきらと輝いている。まさか、と先刻よりも更に嫌な予感を募らせつつ、それでも微かな願いを
込めて紫原は問うた。
「このゴミならあげるけど」
女の子は思い切り首を横に振った。
「だよねー……あーあ」
駄目でもともとではあったが、儚くも崩れ去った希望に紫原は肩を落とす。自分で持ちかけたことではあるが、この展開は予想できなかった。まさか、この年端もいかぬ少女が、
自分の一番のお気に入りに目をつけるとは。それも新味。女の子のことだから、たいがいチョコレートがいいとかいう返答を予想していたのだが。お目が高いというか、マニアック
というか。
観念して、紫原はのろのろと袋の中を探り始めた。期待に満ちた目がその手元を追う。これで結局なければ、ないものは仕方ないということで、紫原も、恐らくこの女の子も、諦めが
つくであろうが。しばらくがさがさした後、紫原はがっかりした。袋の底に、もう一本だけ残っていたまいう棒新味を発見してしまったのだ。
「はい、どーぞ」
あまり渋ると未練が増す。紫原は投げやり気味に、取り出したまいう棒を女の子の手に押しつけた。女の子はぱっと表情を明るくする。両手で握りしめたそのお菓子を、宝物か何か
のように見つめ、しばらくの後にばりばりと袋を破いた。さくさくと、口の周りや手を粉まみれにしながらそれにぱくつく。本来なら自分の口に入るはずだったものへの執着心をやはり
捨て切れず、紫原はその様子を恨めしげに眺めた。そんなことにはお構いなしに、まいう棒は女の子の歯で削り取られていく。
中ほどまで食べたところで、口をもぐもぐさせながら、女の子がぱっと顔を上げた。
「……ありがとう!」
にっこりと笑った女の子の口元は、食べカスだらけだった。不意を突かれて、紫原は数度まばたきをする。女の子はそれだけ言うと、またすぐにお菓子を平らげる作業に戻った。
もぐもぐと膨らんだ丸い頬が、ほんのりと赤い。
廊下の喧騒と女の子がお菓子を頬張る音を背景に、紫原はやれやれと心の中で息をついた。
「ちゃん!」
近くの手洗い場で、粉と油でべたべたになった手を洗わせてやっていると、慌てたような女の声が掛かった。背伸びをして蛇口から出る水に手を浸したまま、まず女の子が弾かれた
ように振り返り、その後ろでチョコをかじっていた紫原がそれに続いた。
「おかーさん!」
女の子は叫び、急いでその母親に駆け寄ろうとして、しかし出しっ放しの水に気づき慌てて元の位置に戻り、水を止めようとしたが栓に手が届かず、右往左往した。紫原はのそりと
近づき、上から手を出して栓を捻って閉じてやった。女の子は忙しなく礼を言うと、濡れた手もそのままに母親に飛びついた。力いっぱいしがみつくその様子から、心底の安心感が
伝わる。母親もほっとした様子で、迷子になった娘を窘めながらも、その顔には笑みが浮かんでいる。ひととおりの再会を済ませた後、母親が紫原に向き直った。心底申し訳なさげに
頭を下げる。
「娘がご迷惑をお掛けしたようで、本当にすみません! ありがとうございました」
「はあ、まあ」
「ほんとにこの子、元気だけは有り余ってて、ちょっと目を離すとすぐ……ほら、、お兄さんにちゃんとお礼言ったの?」
母親に背中を押されて、女の子は素直にぺこんと頭を下げた。紫原にぐしゃぐしゃにされてそのままのツインテールが、うさぎの耳のようにぴょこんと跳ねる。顔を上げると、
女の子は少し考えるように難しい表情をした。そして何かを決心したのか、子ども用のスリッパをぱたぱたと鳴らし、紫原の足元に近づいた。
「お兄ちゃん、あのね」
そう言って、両手を必死に天に向かって伸ばすので、紫原は少し考えてから、先ほどと同じようにまたその場にしゃがみ込んだ。それで正解だったらしい。女の子は伸ばしていた
手で今度は小さなメガホンを作り、紫原の耳元に寄せた。そして、とっておきの内緒話をするような声が、そこに注がれた。
「お兄ちゃん、すごくやさしかったから。お兄ちゃんがいるから、わたし、大きくなったらこのがっこうに行くね」
「ふーん。そっか。がんばれ」
「うん! がんばる!」
女の子は満面の笑みで頷くと、ぱっと紫原から離れた。軽い足音を立てて、また母親の元へと戻る。
母親は再度、再三謝罪と礼を述べると、やがて女の子の手を引いて去っていった。人ごみの中、女の子が振り返ってちょこちょこと手を振る。それを最後に、親子は廊下の角に隠れて
見えなくなった。
紫原はひらひらと振っていた手を止め、ぞんざいな動きでスラックスのポケットにそれを突っ込んだ。そのまま窓辺に寄り掛かり、ひとつ息をついた。ものすごく、柄にもない経験を
してしまった気がする。
「……あ。でもその頃にはオレもう卒業してるって言うの忘れた」
「それ何の話だ?」
「お、迷子発見ー」
片手の指でペットボトルを二本引っ掛け、氷室が現れた。誰が迷子だ、と突っ込みながら、そのボトルで軽く紫原の腕を小突く。
「知り合いでもいたのか?」
「いや、いなかったけど」
一本を受け取り、キャップを捻る。清涼飲料水の、甘い匂いがした。お菓子を食べっ放しだったので、少し乾いた喉にはちょうどいい。
「つーかさ室ちん。オレもっかいお菓子の掴み取りしたいんだけど」
「敦、お前な。それやってるクラスの人が泣くぞ」
「まいう棒残ってっかな」
「好きだなお前」