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 「……高尾。オレの眼鏡をどこへやった」

   「えー? 知らねーよ?」

 低く問い掛けた緑間に、高尾は待ってましたと言わんばかりに思い切りにやついた。三日月形に細まった目元には、四角いレンズの黒縁眼鏡がかかっている。それは本来緑間の顔に 収まっているはずのものだ。
 部活の休憩時間中。顔を洗うべく水道へ向かった緑間と高尾。眼鏡をかけたままで水にぶっかかる訳には当然いかず、取り外して確かに流し台の縁に置いたはずのそれが、なくなって いた。極度の近視である緑間は眼鏡がなければ文字どおり何も見えない。高尾が何かやらかしたということに確信はあるのだが、その顔に自分の眼鏡をつけられていることには、 見えないので気付くことができない。手のみを頼りにして流し台の縁を探っても探っても見つからない眼鏡に、緑間は眉間に深く皺を寄せた。
 マネージャー業務の一環である洗濯物を片付けに行く途中で、その様子の一部始終を見てしまったは、高尾と緑間を見比べおろおろと声をかけた。

 「た、高尾くんっ……」

 「おー、。来た来た。つーか真ちゃんこれ度きっついなー。頭くらくらするわ」

 「おい高尾今何と言った。やはり貴様が持っていたのか! ていうかかけているのか!?」

 「真ちゃん真ちゃん、オレこっち。それ木な」

 「くっ……さっさと返すのだよ」

 「まあまあ、もちょっと」

 「何がだ。返せ」

 「み、緑間くん、今動いたら危ない」

 「か。おい、悪いがアホの高尾から眼鏡を取り返すのを手伝ってくれ」

 「あ、ごめんね緑間くん、それは猫。私、こっち」

 「む。どっちだ」

 ふらふらと視線をあらぬ方角へばかり向ける緑間が危なっかしくてたまらず、は思わずそのシャツの裾を引っ張った。

 「こ、こっち!」

 「ん、こっちか?」

 触覚に訴える指示に、ようやく緑間は正しいの位置を掴んだ。引っ張る力が来る方へ向いて振り返る。そして、そのままぴたりと動きを止めた。距離にして十数センチ足らず。 緑間とは、予想外に近づいていた。
 が緑間を導くのに一生懸命になりすぎたせいか、引っ張られた緑間の足元がやはり少し覚束なかったせいか。近づいたとは言ってもその身長差から、顔と顔はかなり離れたままだ。緑間の視界で見ると多分にぼやけてはいるがしかし、目の前にいるのは確かにだと、雰囲気でわかる。 眼鏡のない目の瞬きも忘れ、緑間はをただ見下ろした。の方も、目を真ん丸にして緑間を見上げている。似たような表情だ。

 高尾はというと、そんな二人をはたから眺め、ますますにんまりした。緑間をからかうのが常の彼とはいえど、何も理由なく緑間のライフラインである眼鏡を奪ったりはしない。
 先に顔を洗い終え目を上げた高尾は、向こうからがこちらに向かい歩いてくるのを見つけた。隣では、未だ眼鏡を外したまま流し台に向かう緑間が。その瞬間に思いついたのが、 このいたずらである。
 緑間とがお互いに片思いをしているというのは、秀徳高校バスケ部の筋では有名な話だった。筋では、というのは、普段からこの二人をよく見掛けていないとなかなか わかりにくいからだ。少々奥手に過ぎると、超がつくほど鈍感な緑間。後者は恐らく、自らの気持ちの自覚にすら至っていない。放っておいては遅々としてどころかミリ単位ですら 進展のないだろう二人のために、お節介半分おもしろ半分で、高尾はフラグイベントを設定してやったのだ。しかしここまで上手い具合に行くとは思わなかった。
 お互いに首の痛そうな格好で見つめあう緑間とに、さあどう出ると心の中では実況者気分で高尾は拳を握った。

 先に動きを取り戻したのは、だった。

 「み……緑間くんって」

 「……あ、ああ」

 お互いに、恐る恐る口を開く。そしてなぜか唐突に、はその表情をぱっと明るくさせた。

 「まつげ長いねえ!」

 「は?」

 そして飛び出た一言に、緑間と高尾は思わず合唱した。は憧れと羨望できらきらと瞳を輝かせながら続ける。

 「今まで眼鏡でわかりにくかったけど、長い! 量も多いし! いいなあ、男の子なのに」

 「……いいのか、それは」

 「うん、羨ましいよ。やっぱりまつげが長いと可愛く見えるから」

 「何なのだよそれは。嬉しくもないし実用的でもないな」

 「あ、ご、ごめんね、男の子にそんなこと。でも、ほら、まつげ長いと目に埃入りにくいって言うし」

 「そうなのか。別に入るときは入るのだよ」

 「そっかあ。やっぱりキリンくらいじゃないとだめなのかな?」

 「なぜそこでキリンが出る」

 「キリンもまつげ長いんだよ。見たことない?」

 「ないな。キリンのまつげが長いと何のメリットがあるんだ?」

 「あのね、キリンはね―――」

 そしてなぜかキリンの話に夢中になり始めた二人に、高尾はぽかんとし、そしてがっくりと肩を落とした。ずっこけなかっただけまだましだと思ってもらいたい。もはや呆れてツッコむ気も起きなかった。 普通、意識している相手を間近にして、あのように気楽な顔をしていられるだろうか。一般的には、否。恋のキューピッド高尾が放った矢は想定外の展開に場外ホームラン、 もしかするとの方も自分の恋心に気付いていないのではないかという疑惑を浮上させるのみに終わった。残念でしかたがない。高尾はため息をひとつ落としたが、じきに、しかし まあと持ち直した。
 水道の前では、身振り手振りもまじえてキリンがいかに素晴らしい動物かを熱心に語ると、そのが紡ぐ言葉だからだろう、非常に興味深げに相槌を打つ緑間がいる。その声の調子と 様子が、至極ほほえましいことには違いない。自分の期待していた成果は見られなかったが、これはこれでいいのかもしれない。結局、彼らには彼らなりのペースがあるのだ。どれだけ ゆっくりでも、遠回りでも、それを見守っていくのもきっとまたおもしろいだろう。
 とりあえずは、これからもこんな感じで仲良くやってけよと、高尾はこっそり笑った。


 と、きれいにまとめようとしたが、まだ眼鏡を返していなかった件で、後に緑間からきっちりと断罪されることとなった。












・オマケのキリン・

 「それにしてもってキリン博士だな。何でそんな詳しいワケ?」

 「うん、私、動物の中ではキリンがいちばん好きなんだ」

 「まあ悪くない選択だと思うのだよ」

 「ほんと? ありがとう、緑間くん。それにしても緑間くんって背が高くてまつげも長いから、なんだかキリンみたいだねえ」

 「……んん? ちょい待ち、それってどーいう意味?」

 「え? どういうって……緑間くんは背が高くてまつげも長くて、キリンみたいで、だから…………あ」

 「えっ、ちょ、だからっ? その先は?」

 「あ、い、なん、何でもない! 何でもないから!」

 「? お前ら何の話をしているのだよ」

 「気にしないでー!」