おめでとう
休憩時間、用を足した紫原が男子トイレを出てすぐそこの水道で蛇口から流れ出る水に
びしゃびしゃと両手をつけていると、廊下の向こう側から同じクラスの女子である
が歩いてくるのが見えた。級友との付き合いもそこそこなテンションの紫原は当然すれ違う
女子と率先して気さくに挨拶を交わすタイプでもなく、頭の中でその人物の名前をあくまで
ひとつの名称としてぼんやりと思い浮かべるだけで、蛇口を一捻りしてそのまま立ち去ろう
としたのだが、それよりも先にそのが唐突にぴたりと小さな上履きに収まった足を
止めたので、なんだかぎょっとして手についた雫をぴっぴと払う動きをやめてしまった。
「紫原くん」
「……なに?」
「おめでとう」
「は? え、あ、うん。え?」
黒い瞳の彼女は何食わぬ顔色で紫原をしばらくひととおり見上げると、うんうんと頷いた。
何のことだか紫原にはさっぱりわからなかった。眉をひそめて、濡れたままの手をズボンの
尻で拭こうとすると彼女は親切にもキャラクター物のタオルハンカチをブレザーの
ポケットから取り出して差し出してくれたので、紫原はありがたくそれを受け取り手を
さっぱりとさせた。それから帰る方向は教室で同じだったので、そのまま連れ立って歩いて
いった。
教室の入り口に着くととは別れ、それから黄瀬と出くわし次は体育なのに遅い
じゃないかとぷんぷんされて若干いらついたが、結局「おめでとう」とはいったい何の話
のことだったのかわからずじまいだった。
アイドル
「黄瀬くんはモデルなんだねえ」
「そっスよー」
「モデルが目の前で動いて喋っているというのは何だかものすごい事実であるね」
その年の春から黄瀬と同じ教室で過ごすこととなった女子の一人であるは、長い髪を
後ろに垂らして彼の顔をうんと見上げた。世間一般的な反応から少々ずれた調子で、
媚びも衒いもなく単純に物珍しげな目で見つめられると、黄瀬はなんだかそわそわして
たまらなかった。背中から来るむずがゆさを誤魔化すために、肩甲骨の辺りからがばりと
両腕を広げてふざけた声音で言った。
「もっとびっくりしてもいいっスよ!」
「いや、びっくりはしないよ」
「あ、そっスか」
「黄瀬くんに限っては歌って踊りでもしない限りびっくりはしない」
黄瀬は反応に困った。笑ったままの頬にセミコロンが現れるのが我ながらよくわかった。
「えーとつまり、ミュージカルとか?」
「それもよかろうね」
モデルとバスケはこれからも続けていくつもりではあったが、それはなかなか視野に
なかった。これもまたひとつの展望として扱っていくべきなのであろうか。黄瀬は五分間
ほどうっすらと悩んだが結局それはないという結論に達した。
写真
桃井とは肩をくっつけて頬を寄せ合って一葉の写真を眺めていた。
「悪人面」
「でしょ? 青峰くんの写真ってこんなのばっかなの」
そんなことをひよこのように悪気のない顔でぴよぴよと喋り合う女子二人を、青峰はその
悪人と称された顔でもってして事情を知らない者が見ればひっと悲鳴を上げてしまいそうな
渋面を作り睨めた。しかししばらくは無言のうちに自由を与えてやっていたので、桃井は
次々とアルバムのページをめくり写真をに展示していく。はその一枚一枚をこれと
いった表情も浮かべずに眺めてはコメントを残し次へ次へと興味の対象を移していった。
しかしそのコメントというのがだいたい悪人面の一言に尽きるので、青峰はとうとう我慢が
ならず面倒ながら口を挟んだ。
「どうせ見んならもっと楽しそうに見やがれ」
「楽しいよ」
「顔に出せ、顔に」
「青峰くんは自分の写真を他人ににやにやと顔に出して楽しそうに見られたいの?」
「嫌な奴だなお前」
「あ、こっちは夢の国に行ったときなんだけどね。見てこれ、せっかくネズミと映ってる
のに!」
「やっぱり悪人面だね」
「うっせーうっせーうっせーよお前ら、オレは写真映りよくねえんだよ悪かったな」
「うん、みたいだね。もったいない」
「あ? んだそれ、実物で見りゃイケてんのにって意味かそりゃ」
もう大概で写真の話は終わりにしてほしかったのでわざとらしく投げつけた言葉だったの
だが、その一言では目を真ん丸にしてはたと動きを止めた。予想外の反応に青峰はおっ、
と思ったが、しかしそれも束の間、の表情はみるみる訴えたくなるほどにしょっぱいものとなっていった。
「えー……実物はさあ、タッパも加わって更におそろしいっていうかさあ」
「んがっ、おま、もういいからさっさとその写真しまえさつき!」
「ええーっ、せっかく持ってきたんだからあとちょっと!」
展覧会はその後も続いた。
背中
「赤司くん、私は男じゃないので背中で語られても何を言いたいのかわからないよ」
そんな呆れかえったようなため息まじりの声が後ろの席から聞こえてきたので、赤司は
無視と決め込んだその人物に不本意ながらとうとう目線だけはくれてやった。
「別に何も語ってない。君と話すことなんて何もないんだよ」
「そう言わないで。君はいつも私に背中ばかり向けくさるからそこから何か汲み取って
ほしいのかと思ってしまうのもまあ仕方のないことでしょう」
「そうだね、もう構うなという意思をぜひとも汲み取ってほしいところだけど君にそんな
気のきかせ方を期待する方が無理な話かな」
「難しいね、だって今さっき何も語っていないと言ったのに今度はそんな意思を汲み取れ
だなんていったいどうすればいいのさ」
「何もしなくていい、黙れ」
「ところで赤司くん、ところでっていう言葉は便利だよねえ会話が続かなくなったときに
適当に投げ込めばそれっぽい流れができてしまうんだから。ところで赤司くん髪切った?」
「何て言うのかな……君と話しているのはそう、言葉を解しない犬を相手しているようで
とても苛々するんだ」
「え、そりゃ犬は人の言葉なんて理解しなくて当たり前でしょう」
赤司はすっと立ち上がった。反射的にもがたりと椅子から腰を浮かせる。
「、殺していいかい」
「だめ」
そして脱兎のごとく逃げ出したを、赤司は獅子のごとく追いかけた。
中の人などいない
「緑間くん」
神妙な面持ちで椅子の上に正座したの太ももとスカートの境目辺りに思わず目をやってしまって気まずく
なった緑間は眼鏡を押し上げながら少し引き気味に応じた。
「何なのだよ」
「緑間くんは、もしかしてその、ボール投げるときにふんもっふって言ったりしますか?」
たっぷりと間を置いて緑間は首を振った。
「言わないのだよ」
「……なあああーんだあああー」
「ちょっと待て何だその態度はオイ、なぜ貴様にそんなことでそんなにがっかりされ
なければならないのだよこら聞いているのかふんもっふって何なのだよ!」
※ハルヒネタ