※最後に反転があります。氷室さんになんだかがっかりする可能性がありますので、受け止めてくださるお方はどうぞ。
元日の昼頃。友人達からのあけおメールラッシュにもようやく落ち着きを見せたの携帯電話が、再び着信音を鳴り響かせた。タッチパネルを操作して開いたのは、一通の
メール。送信元の欄には『氷室先輩』の表示があった。
『あけましておめでとう。急で申し訳ないんだけど、さえよければ、今から一緒に初詣に行ってほしいんだ。……ダメかな?』
予想もしなかった誘いに、は眠たげに細めていた目を一気に覚醒させた。
年末ギリギリまでバスケ部のマネージャー業に追われていたは、久々の完全休業ということで
正しく寝正月を過ごしていた。誰の目も気にすることのない自室に閉じこもり、そのおかげか急激な女子力の低下を感じていた折のこのメール。はそんな自分の有様を俄かに
恥じた。慌てて布団から跳ね起き、両手で持ったスマートフォンにかじりつくようにして返事を打つ。そして用の済んだ筐体は放り投げ、思い直してもう一度手に取り丁寧に置き直し、
衣服を詰め込んだカラーボックスを漁り始める。ふと姿見に映ったくちゃくちゃな髪をわたわたと手ぐしで整え、寝巻のジャージを脱ぎ捨てた。
約束の場所で、既に氷室は待っていた。ありがちなシチュエーションに内心で悲鳴を上げながら、はブーツのかかとをぱこぱこと鳴らして駆け寄った。
「す、すみません、氷室先輩。お待たせしました!」
「あ、。いや、今来たところだよ」
「本当ですか?」
「本当に」
「そうですか……ありがとうございます」
「はは。じゃあ、行こうか」
参道を指さす氷室に並んで、は歩き始めた。ちょうど昼食後の時間帯にも拘わらず、周囲は二人と同じように初詣に訪れた客でごった返している。は持ってきたハンド
バッグをなくさないようしっかりと持ち直し、ついでを装ってちらと隣を歩く氷室に目を遣った。この人ごみの中でも目立つ長身を包むのは、今日ばかりは私服だ。濃いグレーの細身の
ジャケットに、明るすぎない赤のマフラーを少し緩く巻いている。それに隠れているのか、いつも胸元に光っていたあのシルバーのリングは見えない。
気がつけば、まじまじと見つめ
すぎていたようだ。ふと目が合うと、少しばつの悪そうに唇を引き結んだに、氷室は微笑みかけた。
「改めて、あけましておめでとう。」
「あっ、あけましておめでとうございます」
「悪かったね、いきなり呼び出して」
「いえいえそんな。私も初詣まだでしたから、むしろちょうどよかったです」
「そっか。ありがとう」
「こちらこそ! と、言いますか、私がお供でよかったんですか? バスケ部のみんなは?」
「うん、メールは送ったんだけど、ダメだった。いい返事をくれたのはだけだよ」
「あれ、そうでしたか」
「何が悲しくて男ばっかで初詣、って」
「あはは、べつにいいのに」
「そう思うけどなあ。まあ、ウインターカップ終わってから初めての完全オフだしね」
肩をすくめて見せる氷室につられて笑っていただったが、後に続いた言葉にふと、悟られぬ程度その表情を硬くした。それをとりつくろうように、会話をつなげる。
「あ、そういえば……」
「うん……あ、はよかった?」
「私ですか?」
「せっかくの休みに連れ出しちゃったけど……」
「え、私は大丈夫ですよ! マネージャーですし、試合には出てませんし……」
言いながら思い出すのは、ウインターカップのこと。年は変わってしまったが、時間としてはほんの数日前までのことで、まだ鮮烈にの記憶に焼きついている。
押し寄せる
ような観衆の声と、真白い照明の光。その真下で繰り広げられるいくつもの試合。技と技の応酬に、張りつめたボールは床を打つ音を高く何度も響かせ、コートの中を弾丸のように
行き交う。それを手繰るのは、コートに立つ選手たち。汗を飛ばし息を切らせ、それでも声を嗄らしはしない姿に、めまいすら覚えたのは一度や二度ではない。
はマネージャー
として、できることすべてをやってきたつもりだった。陽泉高校男子バスケ部の名に恥じぬよう、負けぬよう。それでも、この冬出揃い最大の力を発揮した彼らチームの姿を目の当たり
にして、自分の存在とどこか遠のいて感じたのも事実だ。自分の役目はサポート。それより先へは進めない。サイドラインより前へ進むことはない。一瞬過って、ねじ消した歯がゆさが
また首をもたげそうになる。
は緩く、唇を噛んだ。
「……マネージャーだって、正真正銘のチームだよ」
ふと低くなった声に、は俯きかけた顔をそろりと上げた。境内を目指す人の流れは一時つかえて、並んで立ち止まったお互いの視線が交錯する。隣に見える、涼しげという言葉
が似合う目元は、真剣さを湛えながらも優しくを見下ろしていた。
「一年間、お疲れ様。ありがとう」
「……そんな」
「今年も、オレ達と一緒にバスケをしてくれる?」
「…………」
「?」
「……はい」
「うん。よろしくね」
「よ……よろしく、お願いします」
思い切って下げたの頭を、氷室の手がぽんぽんと二度三度撫でていった。いつものどこかで渦を巻いていた感情に、その出る幕はないんだと言い聞かせてくれるような
手つきだった。これだから、この人は。は伏せた頭の下で、ぎゅっと目をつむった。
その手をぱっと離すと、氷室は場を仕切り直すように、少しおどけた調子で言った。
「と言っても、オレが加わったのは夏が終わってからだったけどね」
「そんなの関係ないです」
「ああ、ありがとう。そう、だから今回の初詣って、日本に帰ってきてから初めてなんだよな」
「あ、そういうことになるんですね」
「久しぶりで、勝手がよくわからないんだ。、案内を頼めるかな?」
「……っはい! 私でよければ、喜んで」
止まっていた人の波が、また動き始めた。参道の両脇に並ぶ、色とりどりの露店。あちらこちらから人々の食指を誘う食べ物のにおい。薄い青に晴れ渡った空の下、きんと冷えた
空気にも負けず、喋り、笑い、手足を動かす人々の活気は、まだ遠く離れた境内に続く石段にまで満ち満ちている。
社殿で参拝を済ませたら、帰りに何か買っていこうかと話す二人の前に、唐突におしるこが二杯差し出された。気のよさそうなおばさんが、町内会テントと無料配布の幟を背に笑って
いた。氷室が受け取り、回してもらったおしるこを、は一口すすった。とても温かくて、甘い。紫原だったら、一口で飲み干してしまいそうだ。それを岡村が自分まだ飲んでない
と泣いてとがめる。氷室と福井は平和に回し飲みして、劉はもう一度列に戻ってちゃっかり自分専用を確保していそうだ。そんな光景が、覚えず、ふっと頭を過る。二人の先輩はこの
冬を限りにそれぞれの道へと進んでしまうが、もしもその中に、自分もいることができたら。
人の列はゆっくりと、けれども着実に前へ前へと進んで、やがて二人を境内の内へと運んでいった。それぞれの財布から小銭を取り出し、手に握る。お賽銭を投げ入れたら、二拝二拍手
で、最後にもう一拝。そう説明するに感心したように習う氷室に、は少し笑ってしまった。
両手を合わせて閉じた目の裏に浮かぶのは、やはりバスケのことばかり。隣で
同じように目を伏せる、自分をチームの一員だと言ってくれたその人も、同じ風景が見えているだろうか。ふっと開いた真っ直ぐ前を見る瞳に、はこらえきれず声をかけた。
「……氷室先輩」
「うん?」
「また今度は、みんなで来れるといいですね」
「……ああ、そうだな」
にこりと笑んだ氷室に、も少し照れたように笑い返した。
参拝を済ませた二人はそれから、露店のゲームや食べ物をめぐり歩き、また元の待ち合わせ場所に戻った頃には日も暮れかかっていた。淡い橙に着替えた空に、白い息がのぼっていく。
鳥居を背に家路を目指す人々を少し避けたところで、はぺこりと頭を下げた。
「今日はお誘いいただき、ありがとうございました! すごく楽しかったです」
「こちらこそ、ありがとう。のおかげで参拝の仕方も覚えたし、とても楽しめたよ」
「お役に立てたならよかったです」
は、お菓子やゲームの景品で、来たときよりも少し膨れたハンドバッグをくるりと持ち直した。名残惜しい部分もあるが、また一礼する。
「それでは」
家まで送ろうかとの申し出もあったが、神社からの家まではほど近く、まだ日も沈み切っていないということで遠慮しておいた。お互いに手を振り合って、は歩き出す。
と、数歩も進まないうちに名前を呼ばれ、驚きまた振り返った。
「……!」
「えっ、はい?」
「さっき参拝したときに、言ってたけど」
「参拝……? あ、はい、またみんなで来たいですねって」
「うん。それも勿論楽しそうだけど、オレはまたとも来たいと思うよ」
「え?」
「と二人で」
そう言って氷室は、とびきりやわらかく微笑んだ。細められた黒い瞳には、穏やかな夕日の色がゆらめく。自分に向けられたその仕草に、表情に、立ち姿に、は不意に頭の芯が
しびれるような甘さを感じ取り、思わず身を正した。
「え、えっと……? あ、お、お散歩でしたら、いつでもお付き合いします、けど」
「うん、それもいいな。じゃあ、そのときはまたよろしく」
「は、はい……?」
ぎこちない動きで頷いてみたはいいが、自分が何を了承したのかいまいちよくわからなかった。氷室はといえばにこにこしたまま、その場を立ち去ろうともしない。は自分の頬
めがけて、急速に熱が集まっていくのを感じた。
「あ、その、それでは!」
今度こそ勢いよく一礼し、きびすを返し慌ててその場を立ち去った。百メートルほどを半ば逃げるように走り、だんだんスピードを緩め、ついには立ち止まる。そっと振り返って
みても、薄暮の中、遠くなった神社の前を行き交う人の見分けはつかなくなっていた。
ため息のような、安堵の息のような、自分でもどちらか判然としないものをひとつついて、また
とぼとぼと歩き出す。の自宅はこの道沿いを少し行って、住宅地の中でいくつか角を折れた辺りにある。距離にしても、一キロ少々。それだけを歩き切る間にもふわふわとした
思考が口元からこぼれそうで、は慌ててマフラーにうずまると、小さな咳払いひとつでごまかした。
そんなの小さくなった後姿を、やはり神社の前で見送り続けていた氷室は、ふとポケットから携帯電話を取りだした。
『アツシ、教室でから初詣の話を聞かされることがあっても、反応は「そうなんだ」くらいでとどめておいてくれ』
『は? なんで?』
『のりしお奢るから』
『わかった』